薫る夕暮れ、わかりはじめる

読んだもの、観たもの、いただいたもの、詠んだ短歌などについての記録。

12月6日(金)付・近藤芳美『歴史』など

12月6日(金)

◇家で仕事。夕刻、地元商工会のタウンショップで手作りミートソースを食べる。アイスティーの茶葉(アールグレイ)もよくて美味しい。すぐ近くに郵便局があるから、ここで短歌研究詠草のハガキを書いたりもした。地元農家の野菜や地元の店のお菓子、パン、ソーセージ、総菜とかも買える。地元愛のつまった、ほっとするお店。

◇土鍋でご飯を炊く生活にも大分慣れてきた。つきっきりで火を見てやらないと失敗をする。スイッチを押したらテレビを見てもよい電気ジャーに慣れている私は、何度も弱火に落としそびれて、硬くて焦げたご飯を食べるはめにあった。

◇金曜ロードショーは「ルパンVSコナン」という訳わからない演目。一応居間で流していたけれど、気がつけば本を読んでしまったので、筋はよく覚えていない。ルパンはそれほど好きじゃない。コナンはわりと好きだ。

◇読んだ本
・『近藤芳美集』1『歴史』
 昭和24年2月から昭和26年6月までの2年半の作品からなる歌集。近藤芳美といえば硬質で深刻な表情だったり、観念的で解りにくかったりという印象がまずあるけれども、『歴史』は強烈に何かを主張しようと意図しない穏やかな歌が多い。けれども眼差しの向く先は確かに近藤芳美であって、人を威圧するようなインパクトこそ少ないけれども、短歌として表情も韻律も美しい形で近藤の人柄が発露している歌集と感じる。『歴史』というタイトルをつけたこと、分量の多い能弁な後記を添えていることなどからも、穏やかな口ぶりとは相反した覚悟のようなものがこもった歌集なのかもしれない。

 「唯、この二年半ばかりの之らの過去の作品をよみ返して言ひ得る事は、私達にはもはや歴史から逃れて生き得る小さな片隅はあり得ないと云ふ事であり、私達が現代史の中に生きる事を否応ない運命とする以上、私たちの今の作品は現代史の軌跡の上に其の抒情の意味を見つけて行くしか仕方がないと言ふ事である。短歌のような小抒情詩がこのような日にどれだけ意味があるのかと問はれるなら、私は詠嘆とは何らかの意味で常に人間の切ない祈念の思ひであるとだけ答へよう。自分の貧しい作品を曝すときに、私はそれ以上を今語る勇気はない。」(後記)

知っている(=よく知られた?)歌も多かった。

飾り窓にうづたかき花映えながら次第に暗き夜の雨を聞く
性愛のかぎりの事も知らざれば長かりし日を二人生ききぬ
君の四囲に歌はれて行く革命歌ぎこちなきまま今日も交らむ
血を売りに来る青年ら朝ごとに気づかぬほどに列作り去る
帰る道夜半を過ぎつつ明るきに流星群の降る夜と思ふ

・山崎聡子『手のひらの花火』
 明日の批評会に備えて再読。意図的にストイックに作り上げられた世界で、ひとつの答えを示している歌集と感じる。

ほおづきを口の中から取り出せばいのちを吐いたように苦しい
「おまえらは馬鹿だ」と言われへろへろと笑って床に座っていたね
あまやかに噛み砕かれたる芽キャベツのなんてきれいな終末だろう
蝶々を素手で掴んでいるようなきみの手紙の長き追伸
父のためカレーをつくる鉄鍋のさび指先ではらはら崩す