4月2日(水)付『近藤芳美集』第二巻『異邦者』
移民吏の前不意にして泣訴するひとりの声を遠くまた聞く
兵の日のひとり長身のかなしみのよみがえる中凍土の月光
残る実のさんざしを折る妻の歩み帰らむ沼を包むあかねに
2014.4.1(火)付『近藤芳美集』第二巻『異邦者』(途中まで)
ブルドーザー芥のはてに夕日うけ海に降り来る風熱き雨
残るルーブル集め合いつつ飲む酒に二つの窓の夜の海の闇
12月10日(火)
12月10日(火)
◇午前、家で仕事。お昼に近所のお蕎麦屋さんで穴子天そばを食べて、年越し蕎麦を注文。吉祥寺に出て、乾燥肌のこどものための石鹸と、お礼したい方への「あまの」の揚萬念(揚げまんじゅう)と、クイックルワイパーの柄と(あんなに大きなものが何故かなくなった)、オリーブオイルの大瓶などを買う。一番欲しかったかばん(持ち手が今にもちぎれそう)はもう少しいろいろ見たく思って、買わずに帰る。
◇お財布と携帯くらいしか入らない小さな鞄にして、その日の加減でもうひとつ手提げをもつやり方にしようか、ひとつの鞄にその日読む本なども入れるやり方にしようか、悩み中。鞄の中身が整理できない私は、たぶん前者にする。
◇何なのだろう。私の母は、家事を終わらせたあとに鞄の中身を隅から隅まで整理するのが毎日の至福の時間のようだったというのに。足りないものをどんどん加えて際限なく鞄を膨らませるところは、私は明らかに父似だ。
◇『歌壇』12月号の斉藤斎藤さんの文について、しみじみ考えている。歌人に限らず、20代の人たちには独特の強みが確かにある。自分たちはこれで行くという確信に満ちていて、大切に大切に守られて育ったような、伸びやかさと品の良さがある。私は私が育った土壌で生きていくしかないけれど、何十年後かにそれぞれの世代がどんな風に実るのだろうと想像するのはすごく楽しい。もやもやとした感じではなくて、それぞれが際だった形に育っていたら、面白いだろうなあと思う。大事なのは、悪い方向にぶれないこと。短歌研究の短歌年鑑についても、また。
◇読んだ本
・『歌壇』12月号。
・『近藤芳美集』は休んで、ちょっと月詠に集中。
12月9日(月)
12月8日(日)
12月8日(日)
◇上の子は友達と近所のイベントへ。拗ねた下の子をセブンイレブンへ連れて行き、おむすび3つとジュース、そして欲しいと言い張る歯間ブラシ、ブルーレット置くだけを買ってやる。なんでそんなものが欲しかったのかわからないけれど、家のものとして必要だったのでよかった。
◇午後、隣駅まで習い事(テニス)。うらやましい。私も再開したいけれど、テニスをやる条件は前日たっぷり寝る、なのでもうしばらく我慢。しばらく寝なくてよい体制で暮らしていく。
◇とても寒かった。近所のスーパーで鍋の材料を買って帰る。出来合いの鍋つゆではなく、家で味噌仕立てにしたらおいしかった。近年の鍋つゆの豊富さは楽しい。でも、家の味もいい。
◇読んだ本
・『近藤芳美集』2『喚声』を少し。
12月7日(土)付・近藤芳美『冬の銀河』
12月7日(土)
◇午前中、こども達と過ごす。午後、山崎聡子さん歌集『手のひらの花火』批評会。
かなり高度な技術面での指摘が多かったのは、山崎さんの実力を踏まえてのことなのかも知れない。文体との契約という話が身に突き刺さるようだった。「文体との契約」の本当の意味は、私にはまだ理解できていないのかもしれない。連作ごとに違った磁場に乗ることも別に構わないように感じている私は、まだまだ自覚が足りないのかもしれない。
書こうかどうしようか迷った上で書くけれども、「グロリア」の一連がどのような評価を受けるか、という点に前から興味があった。なるほどなと思った。石川美南さんが否定的な意見を言うのは解る気がしたけれど、斉藤斎藤さんが辛口の評をしていたことが意外だった。どんなところがどんなレベルで駄目なのか、詳しく聞いてみたい気がした。当事者の悲しみや怒りにどこまでも寄りそい、それが可能な立ち位置でだけ表現することが短歌の約束なのかもしれないが、私としてはこういったことを軽率とも思える感情と切り離した表現で綴るのは、文芸として普通のことのように思う。
◇読んだ本
・『近藤芳美集』1『冬の銀河』
昭和26年7月から29年8月にかけての歌。『歴史』とうって変わって言葉少なな後記が胸に迫る。対象に対してどこまでも評価的だった眼差しが、その姿のままで包みこむような心のありように変化している。人や物の美しい部分を掬い上げながら綴られた歌群は確かに東京の空に幽かに輝く銀河のようだ。
難解な、つまり当時の情勢をよく解っていないとどうにも解らない歌がだいぶ少ない。前から気になっていたのは停電の歌が多いことで、梶井基次郎の小説に「はやく電気でもくれば」と確かあったが、時代時代の電力供給の事情なんかも、きちんと調べながら読んだら大分面白いのだろうなと思う。
海の色暗き日すがら人寄りて砂鉄を洗ふ砂丘(すなをか)のかげ
沖遠くサルベージ船見えながら暗き潮に虹の立ち居つ
停電より停電までの一時間音絶ゆる夜を妻と寄り居る
吾があます鰊を箸に食ふ女馬橇の音遠く過ぎたり
言ふままに素直に帰る少年よ土のとけ行く夜の風の中
やっと1巻読了。
12月6日(金)付・近藤芳美『歴史』など
12月6日(金)
◇家で仕事。夕刻、地元商工会のタウンショップで手作りミートソースを食べる。アイスティーの茶葉(アールグレイ)もよくて美味しい。すぐ近くに郵便局があるから、ここで短歌研究詠草のハガキを書いたりもした。地元農家の野菜や地元の店のお菓子、パン、ソーセージ、総菜とかも買える。地元愛のつまった、ほっとするお店。
◇土鍋でご飯を炊く生活にも大分慣れてきた。つきっきりで火を見てやらないと失敗をする。スイッチを押したらテレビを見てもよい電気ジャーに慣れている私は、何度も弱火に落としそびれて、硬くて焦げたご飯を食べるはめにあった。
◇金曜ロードショーは「ルパンVSコナン」という訳わからない演目。一応居間で流していたけれど、気がつけば本を読んでしまったので、筋はよく覚えていない。ルパンはそれほど好きじゃない。コナンはわりと好きだ。
◇読んだ本
・『近藤芳美集』1『歴史』
昭和24年2月から昭和26年6月までの2年半の作品からなる歌集。近藤芳美といえば硬質で深刻な表情だったり、観念的で解りにくかったりという印象がまずあるけれども、『歴史』は強烈に何かを主張しようと意図しない穏やかな歌が多い。けれども眼差しの向く先は確かに近藤芳美であって、人を威圧するようなインパクトこそ少ないけれども、短歌として表情も韻律も美しい形で近藤の人柄が発露している歌集と感じる。『歴史』というタイトルをつけたこと、分量の多い能弁な後記を添えていることなどからも、穏やかな口ぶりとは相反した覚悟のようなものがこもった歌集なのかもしれない。
「唯、この二年半ばかりの之らの過去の作品をよみ返して言ひ得る事は、私達にはもはや歴史から逃れて生き得る小さな片隅はあり得ないと云ふ事であり、私達が現代史の中に生きる事を否応ない運命とする以上、私たちの今の作品は現代史の軌跡の上に其の抒情の意味を見つけて行くしか仕方がないと言ふ事である。短歌のような小抒情詩がこのような日にどれだけ意味があるのかと問はれるなら、私は詠嘆とは何らかの意味で常に人間の切ない祈念の思ひであるとだけ答へよう。自分の貧しい作品を曝すときに、私はそれ以上を今語る勇気はない。」(後記)
知っている(=よく知られた?)歌も多かった。
飾り窓にうづたかき花映えながら次第に暗き夜の雨を聞く
性愛のかぎりの事も知らざれば長かりし日を二人生ききぬ
君の四囲に歌はれて行く革命歌ぎこちなきまま今日も交らむ
血を売りに来る青年ら朝ごとに気づかぬほどに列作り去る
帰る道夜半を過ぎつつ明るきに流星群の降る夜と思ふ
・山崎聡子『手のひらの花火』
明日の批評会に備えて再読。意図的にストイックに作り上げられた世界で、ひとつの答えを示している歌集と感じる。
ほおづきを口の中から取り出せばいのちを吐いたように苦しい
「おまえらは馬鹿だ」と言われへろへろと笑って床に座っていたね
あまやかに噛み砕かれたる芽キャベツのなんてきれいな終末だろう
蝶々を素手で掴んでいるようなきみの手紙の長き追伸
父のためカレーをつくる鉄鍋のさび指先ではらはら崩す