薫る夕暮れ、わかりはじめる

読んだもの、観たもの、いただいたもの、詠んだ短歌などについての記録。

正岡子規『墨汁一滴』


  正岡子規『墨汁一滴』(明治34年)から、新しい日本語の表記に関する記述を。

「漢字廃止、羅馬(ローマ)字採用または新字製造などの遼遠(りょうえん)なる論は知らず。余は極めて手近なる必要に応ぜんために至急新仮字(しんかな)の製造を望む者なり。その新仮字に二種あり。一は拗音(ようおん)促音(そくおん)を一字にて現はし得るやうなる者にして例せば茶の仮字を「ちや」「チヤ」などの如く二字に書かずして一字に書くやうにするなり。「しよ」(書)「きよ」(虚)「くわ」(花)「しゆ」(朱)の如き類皆同じ。促音は普通「つ」の字を以て現はせどもこは仮字を用ゐずして他の符号を用ゐるやうにしたしと思ふ。しかし「しゆ」「ちゆ」等の拗音の韻文上一音なると違ひ促音は二音なればその符号をしてやはり一字分の面積を与ふるも可ならん。
 他の一種は外国語にある音にして我邦になき者を書きあらはし得る新字なり。
 これらの新字を作るは極めて容易の事にして殆ど考案を費さずして出来得べしと信ず。試にいはんか朱の仮字は「し」と「ユ」または「ゆ」の二字を結びつけたる如き者を少し変化して用ゐ、著の仮字は「ち」と「ヨ」または「よ」の二字を結びつけたるを少し変化して用ゐるが如くこの例を以て他の字をも作らば名は新字といへどその実旧字の変化に過ぎずして新に新字を学ぶの必要もなく極めて便利なるべしと信ず。また外国音の方は外国の原字をそのまま用ゐるかまたは多少変化してこれを用ゐ、五母音の変化を示すためには速記法の符号を用ゐるかまたは拗音の場合に言ひし如く仮字かなをくつつけても可なるべし。とにかくに仕事は簡単にして容易なり。かつ新仮字増補の主意は、強制的に行はぬ以上は、唯一人反対する者なかるべし。余は二、三十人の学者たちが集りて試に新仮字を作りこれを世に公にせられん事を望むなり。
(三月十一日)」

「『近古名流手蹟(しゅせき)』を見ると昔の人は皆むつかしい手紙を書いたもので今の人には甚だ読みにくいが、これは時代の変遷で自(おのずか)らかうなつたのであらう。今の人の手紙でも二、三百年後に『近古名流手蹟』となつて出た時にはその時の人はむつかしがつて得読まぬかも知れぬ。それからもう一時代後の事を想像して明治百年頃の名家の手紙が『近古名流手蹟』となつて出たらどんな者であらうか。その手紙といふ者は恐らくは片仮名平仮名羅馬(ローマ)字などのごたごたと混雑した者でとても今日の我々には読めぬやうな書きやうであらうと思はれる。
(五月二十六日)」

  漢字全廃やローマ字書き採用が真剣に議論されていた時期に、子規もまた新しい日本語の表記法について、思いを巡らせて発言をしていた。文人たちは皆気になって仕方がなかったのだろうと思う。
  拗音や促音は、その後小さい「や、ゆ、よ、つ」で書き表すアイディアが採用されて今日に至っているし、外国語音も外来語としてよく使う欧米語を中心に書き方の指針が示されたのだから、子規の指摘した点はかなり実際に改められてきたといえる(さすが子規)。
  漢字全廃については、他の随筆なんかを見ても慎重に言及を避けている感じがして、ただ、この『墨汁一滴』の書きぶりからは漢字が廃されてローマ字がもっと多用される未来を想像していたような気がする。
  実際にはそこまで変化は起きなくて、『墨汁一滴』の表記(たとえば大正四年版を復刻した『新版子規随筆』を見る)と明らかに違うのは、漢字が新字体になって常用漢字が採用されたこと(それ以外の漢字は、使わないかふりがな付きで使うことが出版などの漢字使用の「目安」としてかなり遵守されている)と、変体仮名が全廃されたこと、そして現代仮名遣いが採用されたことくらいだと思う。子規の随筆も「表記の面では」今日でもまだ多少の慣れで「読める」(むしろ語彙や文法の方が隔世の感があると思う)範囲なのでは。
  明治100年は昭和43年。ベトナム戦争、東大闘争。『竜馬がゆく』刊。少年ジャンプ創刊。恋の季節、恋は水色、サウンドオブサイレンス、ヘイ・ジュード。巨人の星夜のヒットスタジオ
  音の文字化の面でも語彙の選択の面でも、口語をそのまま表記することに圧倒的に慣れてしまったし、漢字書きがだいぶ少なくなった。子規たちが明治100年の文を読んだら、その辺りにもたもたした読みにくさを感じるのかもしれない。でも、そのくらいだと思う。そのことに子規がホッとするのかつまらながるのかは、わからないけれども。