google翻訳と文語という沃野ー「不自由の不自由展 吉祥寺トリエンターレ」のある作品を観て
もう会期は終わってしまったのだが、先月吉祥寺で開かれていた「不自由の不自由展」がとても印象深かった。無論あいちトリエンナーレに触発されたもので、一周まわって自由のような、不自由のいちばん突き当りでもあるような、でも表現しなければ呼吸が止まってしまう人たちの体温を深く感じるとても印象的な展示だった。
https://gallerynabesan.wordpress.com/exhibition/fujiyuten/
印象深い作品であふれていたのだけれど、本職との関りで、鈴木薫さんの「敷島」という作品についてメモを書いておきたいと思った。
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本居宣長に「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」という和歌がある。『源氏物語』などの日本の古典を再評価した宣長が、日本人の心の根底にある美意識を語ったと考えるのが妥当な歌だが、この歌が近代には国粋主義的な文脈で読まれることになって、人々の思想の統制に使われた。「敷島」はこの「誤訳」にヒントを得て、太平洋戦争にかかわりのある以下の13ヵ国語にGoogle翻訳し、さらにもう一度日本語に翻訳し直した結果を音声や映像で展示したものだ。
ハングル、中国語、英語、タガログ語、オランダ語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、タイ語、ヒンディー語、ビルマ語、ベトナム語
むろん文語文法で記された宣長の和歌が正確に翻訳できるわけがなく、そこに虚構を織り交ぜた表現という磁場への回路があるのだが、それでも「誤訳」のパターンから改めて文語と口語との違いや短詩という詩型だから許されるだろう構文を思ったりして面白かった。表現する人たちの庭に侵入するような緊張で、流れていた翻訳をメモをしなかったのが悔やまれるほどだ。
たとえば、「人問はば」が「人が私に尋ねたら」という意味で、つまり「人」が「問う」という述語動詞の主語であることは今日のこの歌の解釈として自明だが、現代語ベースで作られているGoogle翻訳では、「私」以外の人が動作の対象となる「人に尋ねたら」パターン、「人の質問」のような「名詞ーのー名詞」パターンといった形で表れて、「人」を主語として翻訳できていた言語は無かったように思う(記憶に頼っています)。そこでしみじみ、文語文法では名詞の格関係が読み手の解釈する力で把握されていたことを再確認するわけである。
また、下の句も「……であるとわたしは答える」という引用末尾を補って解釈するわけだが、こういう部分も無論補われない。また、結句の「山桜花」という名詞の言い収めがそのまま残っていた言語があったが(名詞自体は、覚えているところではたとえば「野生のチェリー」という語に変わっていた)、そういう場合に「……であるとわたしは答える」が省略されたものとしてその言語で解釈することはできるのか。日本語でも通常の文としては不完全なものとして認識されるが、詩歌としては(それでも決してノーマルな構文ではないが)読み手が補うことが出来なくはない。
会場にいる時にはそんなことは何も思いつかず、職業人としてのスイッチは完全オフした素の鑑賞者として楽しんで過ごしたのだが、そういう素の瞬間に生の発見があふれている。Google翻訳を使うのはプロ失格だとか、Google翻訳で予習してきた学生に単位を出すべきではないとか、いやいや、大いに使って時短に励むのが現代人だとか、そういう議論を飛び越えて構文というものの生身にじかに触ったようなライブの面白さがあった。
言葉にヒントを得たアートに、面白いものがたくさんあるのかもしれない。とても面白かったので、落としどころが特に思いつかないまま、ここに大事にメモすることにした次第です。
角川「短歌」2019年10月号
「特集「型」を歌に生かす 五七五七七の本質を知る」。
寄稿しているのは佐伯裕子、春日いづみ、梅内美華子、高木佳子、花山周子、小原奈実、大松達知、島田幸典、堀田季何、安田純生、今井恵子。
ごく大まかに言えば、切り口は二つ。
1,五七五七七という型があることの効果。定型のもつ効果。
2,型がどのように崩されて来たか。破調のあり方や効果。
定型について話せばそこに到るだろうごく自然な論点だが、ひとりひとりの語り方は当然違って、想像していた以上にいろいろ考えさせられた。
個人的にとても印象的だったのは、小原奈実さんの短歌とは個人がゼロから五七五七七をくみ上げるのではなくて、マイナス五、マイナス七、マイナス五、マイナス七、マイナス七、という型の陰圧に「言葉」が流れ込んだ結果の零なのではないか、との見解。綺麗に収まった時の美しさが定型にはあって、その一方でマジョリティの思考に添った読みでどうしても読まれ、マイノリティであることを語れば、そこだけがその歌の核として受け止められてしまう弊害があるという話に、定型で歌を作る楽しさと悩みのほとんどが詰めこまれているように思った。
つまり、読む側のごく一般的な読み筋というもうひとつの「型」がある。このような「読まれる」こと、さらに言えば個々の歌がたとえば勅撰集の部立ての中に自動的に振り分けられていくようなレッテル貼りがされることへの違和感を、同じ世代のいろんな作り手から聞くような気がする。世代を限定した話ではないのはもちろんだが、とくに今日はじめて世界を目の当たりにする若い世代の人たちは、そこへ収斂されることにほとほと疲れ果てている、疲れ果てさせられているのかもしれない。
黒瀬珂瀾『蓮喰ひ人の日記』
この週末に黒瀬珂瀾さんの第三歌集『蓮喰ひ人の日記』を読み返す機会があったので、この歌集について私が今感じることをそろそろ書き記しておこう、と思う。
今回の黒瀬さんの歌集は1年1ヶ月に及ぶアイルランド、イギリス滞在の期間に書かれたもので、タイトル通り旅日記の形式。異民族としての暮らし、その間に起きた東日本大震災、ロンドンでの暴動、リビア戦争、研究者としての妻の日々と出産、育児など、書き手の関心の在処は多岐にわたる。詞書プラス歌という形式は、世界と自身を克明に記録したいという強い意志を感じさせるけれども、それらと平行してジョイス『ユリシーズ』の一節が随所に引用されていることで、記録という形式の持つ暴力性がうまく削がれている印象がある。
彼らの旅は次の一首からはじまる。
赤き薔薇ささげて待てる青年を過(よぎ)りて我ら旅のはじまり
なんと言うことのない、バレンタインデーの街の光景。けれどもそれぞれが専門的な仕事を持った夫妻だから、差し出されたいくつかの薔薇を振り切るように出発した旅なのかもしれない、などとも思う。
『蓮喰ひ人の日記』というタイトルは「短歌研究」連載時から同じであるから、旅をはじめたばかりの頃に抱いていた、予感や決意だろう。それはこれまでの日々を忘れて父親になってしまうことへの反発や不安かもしれないし、歌人として新しい立ち位置に立つことの寂しさであるかもしれない。それと同時にブルーム氏が出会う街の住人のように、同行人にとってのいっときの宿り木でありたいという願いであるようにも感じる(それにしては少し自虐がすぎるようにも思うけれども)。いずれにしても、「私は歩む、歩むが迷うぞ」という宣言であって、その宣言通り、大いに迷いながら父になっていく心の軌跡が興味深くも美しい。
生まれ来るまで幾度の海峡を渡る児(こ)か母を美しくして
鳩尾を蹴られて笑ふ妻よわが刃に堅すぎる英国キャベツ
大家族眺めてねぶる腿の骨かつて否みき父となること
サハリンと北緯等しき朝を鳴くユリカモメ 父になるぞよいのか
胎児を宿す妻の姿はどこまでも愛情深い。そんな妻の姿を美しいものとして眺めながらも、どうしても自身が父となることにためらいを感じる心が拭いきれない、その心境を驚くほど何度も語る夫は正直だ。ためらうのは父としてあるべき姿というものをストイックに意識していればこそだろうか。出産後は、奮闘できる全てのことに奮闘する父という印象。
紙おむつ箱ごと背負ふゆふぐれのレジ内側に白人をらず
真夜中の言葉は甘く容赦なくおむつを替へてくれようぞ吾児
明日へわれらを送る時間の手を想ふ寝台に児をそつと降ろせば
昼夜を問わない子育てにかかりっきりの日々だが、子どもと向き合う父は常にこどもに光を見出し、こどもを光の射す方向へのみ導こうと決意している。
この夏に一枚の葉を加へたる児よいつまでも飲み干せ父母を
擡げたる首ゆ初めて見る吾児よここだ、世界に航路は満ちて
反転の後の世界に瞠りをりどの明日も跳べ明日へおまへは
自分たちの持つもの全てを飲み干して構わぬと語り、世界は航路に満ちているのだと断言し、つねに跳躍し続けよと言い聞かせる父の言葉は少し過剰ではないかと思うほどだ。過剰であるのは、心のどこかで世界の過酷さを意識して止まないからであり、父自身が挫折を知っているから、あるいは今もそのただ中にいるからだろう。世界が完全に明るい時期がもしあるのだとしたら幼少期だけであり、それが儚いものであると知っていればこそ、幼少期の我が子には全力で世界の明るさのことを語って聞かせたいのだ。
ダマスカス・タイルを貼るは少年のまぼろしを追ふごときさみしさ
道とは創らるるものなるか ねえドリー、君の旅路の終はりつてここ?
ダマスカスとはシリアの首都。イスラム風のタイルを貼った建築物に魅せられながらも、イスラム的な少年性を自らはもう手放したものであると捉え、世界初のクローン由来の哺乳類である羊のドリーの剥製に真向かう時、神ならぬ人為の理不尽に強く憤ることを抑止できない。子に語りたい世界と自らの出会う世界との間には齟齬があるのだ。
そしてその齟齬は世界の側にだけではなくて自分自身の中にもある。
メッゾソプラノわが情欲を奔らせぬ月夜の吾児を人に預けて
われら国を離りて――吾妹、汝(な)が水に触るるとき静かなり寒の獅子
妻がペネロペイアなりせば吾は誰 児を抱きて入る飛機の空洞
父親になっても美に対した時の情欲は禁じ得ない。禁じるほどに、自分が遠い旅に出て自分ではない何者かになってしまったことを思う。妻はその喪失を忘れさせてくれる存在だけれども、どこか異質な存在、異質なればこそ「美しい」存在、と捉えているようにみえる。
書き手は、常に異質な思想や感情を同居させてためらわない。そしてひとつのことを思いながら常に別のことを気に掛けずにはいられない。そんな書き手の人柄は先述のように歌を眺めて感じ取れるのだけれど、二物衝突の技法で作られた歌も独特の味わいがあるように思う。
鱈つつむ衣の厚きゆふぐれをhibakushaといふ響きするどし
フィッシュアンドチップスだろうか。日本人にとってはやけに分厚く感じるその衣をつつきながら、突然「hibakusha」という新しい「英語」のことが心に過ぎる。鱈のフライがなぜ「hibakusha」に跳ぶのか、読んでいる側にはどうにも解らない。けれどひとつ推測が許されるならば、「hibakusha」という語のこと、こんな言葉に旅先で出会ってしまうこと、この地で自分たち夫婦だけが、その後の母語話者であり、その語にまつわる一連の出来事の当事者であるという切迫感や孤立感――そういった感情がつねに書き手の感情を支配していて、たとえば厚い揚げ衣、くらいの些細な旅情すらトリガーになって思い起こされてしまうということなのではないだろうか。
人はみな人食ひにして嬰児(みどりご)のこぶしのごとき芽を噴ける芋
乳首咥へ損ねて泣けば空腹も忘れて泣くに――「収束」と言ふ
円高の話は地震(なゐ)に行き着くを燻製鯖に油浮きをり
臓肉を詰めし羊の胃はまろび人智は人を愛するや、否
芋を見ればまるで嬰児のこぶしを喰らうようだと思い、乳首をうまくくわえられずに泣く子を眺めている間にも、時期尚早な原発事故の「収束」宣言に憤りを覚え、油を浮かべる鯖や臓肉を詰めた地元の料理を眺めていても円高にまつわる議論や人智が愛を持ち得るかを思わずにはいられない。これらの二物衝突の歌からは、一方が一方の比喩になっている、とか出会った時の思わぬ詩性の飛躍、とかではなくて、常に案じていることを複数抱えて生きているメンタリティー、それゆえささやかなことがトリガーとなって、思いの外大きな憂慮してやまないことが、気ぜわしく常に思い出されてしまう。そんな書き手の本質的な心の有り様を感じる。
これだけの揺れ動く心を、丹念に記録したその胆力を思う。巻末の歌からは、彼らが旅を終え、九州に新居を構えたことがわかる。それはずっとともに暮らす日々の始まりでもあるし、常に線の形で同行した旅を終えて、点としての住まいを共有しながらそれぞれが違う新たな旅に出かけることの宣言でもあるだろう。自分の島に停泊させた旅人をふたたび海へ帰すことで、オデュッセウスはオデュッセウスであることを、蓮喰い人は蓮喰い人であることを、ひとまず捨て去るのだ。
La Rose et Les Planétes――『星の王子様』のモチーフを借りながら――
2015年9月19日に大阪・十三で開かれたマラソン・リーディング2015 in 大阪 with さくらこカフェ(@カフェスロー大阪)で朗読をさせていただきました。素晴らしい歌人の方々の間に交ざって朗読させていただけて、とても貴重な体験でした。
その際に朗読させていただいたテキストをアップします。
「 La Rose et Les Planétes――『星の王子様』のモチーフを借りながら――」
そもそもの僕らの日々に帰るため手ぶらで川辺へとゆきつきぬ
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「それ、なあに? そのしなもの?」「しなものじゃないよ。これ、飛ぶんだ。飛行機なんだ。ぼくの飛行機なんだ」ぼくは鼻を高くしながら、鳥のように飛べる人間だといってやりました。すると、王子さまは、大声をあげていいました。「なんだって! きみ、天から落ちてきたんだね?」
パジャマ着をコートでかくし出かけたる例えばドラッグストアの出会い
パンクというのは、飛行機のモーターが、どこか故障をおこしたのです。機関士も、乗客も、そばにいないので、ぼくは、むずかしい修理をひとりでやってのけようとしました。
退職は気の毒なものと皆が皆告げれば小さき羽をかくしぬ
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「だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花がすきになったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。そして、〈ぼくのすきな花が、どこかにある〉と思っているんだ。それで、ヒツジが花をくうのは、その人の星という星が、とつぜん消えてなくなるようなものなんだけど、それもきみは、たいしたことじゃないっていうんだ」
児童指導調査カードに書く時の夫の名の楷書はのびのびと
「あんたのすきな花、だいじょうぶだよ……あんたのヒツジには、口輪をかいてやる……あんたの花には、かこいの絵をかいてあげる……ぼくは……」
もの言いにどうしようもなく滲みゆくこれは幸福 蕗を煮ており
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出発の日の朝、王子さまは、じぶんの星を、きちんと整理しました。念入りに活火山のすすはらいをしました。
こうばしき焼き餅を醤油餅にして朝餉もそこそこに家を出る
「そうか、では、あくびしなさい。命令する。わしは、もう、なん年か、ひとのあくびするのを見たことがない。あくびというものは、おもしろいものだな。さ、あくびしなさい、もう一度。命令じゃ」
綴っては突き、綴ってはまた突いてロケット鉛筆で書く物語
「なぜ、酒なんかのむの?」と、王子さまはたずねました。「忘れたいからさ」と、呑み助は答えました。
窓際に座れば右の肩冷えてひらく場所より季節は届く
「こんにちは。なぜ、いま、街灯の火を消したの?」「命令だよ。や、おはよう」と点灯夫が答えました。「どんな命令?」「街灯の火を消すことだよ。や、こんばんは」といって、点灯夫は、また火をつけました。
逃げよ、という声の聞こえて来し空を振り向きざまに塩となりたり
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「ぼくの友だちのキツネがね……」と王子さまはぼくにいいました。「ぼっちゃん、もう、キツネどころじゃないんだよ」「なぜ?」「だって、のどがかわいて死にそうだもの……」
密告の記事をひらきて密告のない国はないとあなたは言えり
「きみ、いい毒、持ってるね。きっと、ぼく、長いこと苦しまなくていいんだね?」
「はなたば」と不意にあなたが言いし時その明るさに驚いたのだ
「ね、とてもいいことなんだよ。ぼくも星をながめるんだ。星がみんな、井戸になって、さびついた車がついてるんだ。そして、ぼくにいくらでも、水をのましてくれるんだ」
「これくらい」の「くらい」がとても上手いから飲み込んでこの春へ駈けるよ
王子さまの足首のそばには、黄いろの光が、キラッと光っただけでした。王子さまは、ちょっとのあいだ身動きもしないでいました。声ひとつ、たてませんでした。
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きんいろが日ごと増しゆく陽光のきわまりに僕も砂になりたし
※本文引用は『星の王子さま』(サン=テクジュペリ作、内藤濯訳、岩波少年文庫二〇一〇、一九七六年改版発行)により、改行・振り仮名などを適宜改めて行いました。
正岡子規『墨汁一滴』
冬瓜(「未来」2015年4月号掲載作品)
井辻朱美『クラウド』
『水晶散歩』以来約10年ぶりの刊行となる、著者の第6歌集。
散文の論理ではない、詩の理不尽な結合力と飛躍力。
最終的には、そこへ還ってゆくべきなのではないか、そんなふうに思ったのです。
そう語る「あとがき」をどこまでも忠実に、ひとつの物語として立ち上がらせたような歌集だと思う。現実とファンタジーの融合あるいは境界。現実の論理の後追いではない、本当のファンタジー。この歌集への評価としてまず語られるべき点はそこであるけれど、すでに多く語られてきたことであるから、ひとまずそこについては触れない。
その先のもう少し微細な質感を伝えるものとして私の目にとまったのは、たとえばこんな歌だ。
きょうここにいる ことがいつも耐えがたい 旅とはかがやかしい白雲だから(P.107)
私は今日、たしかにここにいる。この現実世界、そして現実はたとえばこう俯瞰できるはずだと、思い描いたところの世界に。ひとつ目の一字あけはそのことへの揺るぎない断定だろう。けれどたった今断定されたはずの事実は、すぐさま「いつの日も耐え難い」と強い拒絶の感情でもって受け止められる。なぜなら、あたかもここにいるように見えるけれど、本当のところを言えば、私は白雲として世界を旅する存在なのだから。陽を遮り、時に雨すら降らせながら、けれどあくまで私自身は輝きながら、私がここに永住することはない。
ファンタジーという手法をとっているからかもしれないが、そう言われてみると確かに、旅するクラウドとしての語り手は、歌集全体を通していつもひっそりとたたずむ。
指先で切符をはじいて鳴らしている 卑しき街をゆく騎士として(p.17)
テディベアの耳の湾曲しずかにて陽ざしは永劫あなたを照らす(p.34)
これからは好きなことしかするまいと紅葉爆裂わたしの連山(p.57)
泣きじょうごの男をひとり抱きよせて椰子の木の永久にわかい脊髄(p.69)
まぜあわす言葉の泡立ち もうぜったいに傷つかないでいたいとおもった(p.80)
きらきらと星が振れ出す天球図譜この世に生きてしずかな唇(p.68)
かぜがきてしづかな言葉をつむぐので響きの響きの響きであるわたし(p.80)
コバルトブルウの鳥がこの星に在ることはきみ、なんという救いだろう(p.22)
こうして抜き出して読んでみると、どの歌からも語り手の感情を比較的ビビッドに感じる。けれど連作の中に置かれた形で読むと、語り手もあなたも、風や椰子やドラゴン、波、といった「世界」を構成する諸々のものたちとほぼ等しい存在感しか持たなくなる。私自身はあくまでしずかな唇をもち、風の言葉を増幅させて響かせる存在(さらにはその存在による響き、をさらに響かせる存在)に過ぎない。井辻の世界では、私もあなたもその他すべてのものが意志を持ってそこに「居る」のではなく、大きな力の何者かによってそこへ配置されて「在る」のだろう。それは宿命のようなものを帯びてそこに在るというよろこびでもあるし、寂しさでもある。
ところで、黒瀬珂瀾は「赤ん坊のえくぼのようにくぼむ水は無限バイトのメモリーを持つ」の歌をあげて、「原始の生命力を表す水の上に、最先端テクノロジーの幻を見る。逆に言えば、現代科学を無機質な産業から神秘の理論へと奪還しようとする詩精神がある」と指摘する(「生き直す精神」『現代短歌』2015年3月号)。このような世界の把握の仕方はかなり顕著に、歌集全体にあらわれていると思う。
空調にほつれたしおりがそよぐかな 風の単語を習いはじめて(p.17)
合言葉きらめく滝を忘るなと吹き抜けに住む椰子のたてがみ(p.31)
うっとりと岬に抱かれた海があれば風はメルカトルの図法よりくる(p.32)
等圧線の波に心からあやされて泳ぐ列島をサウルスと呼びたい(p.47)
リキッドがどうしてこんなにさみしがるんだ揺れながら胸を打つ波頭(p.100)
この島にディズニーランドが着床してから惑星固有の風船の花咲く(p.102)
絢爛と本くずれたるデスクの隅に平伏しているレッツノートが(p.172)
空調の風と海原や森をわたる風、吹き抜けとして屋内へと取り込まれた空と本物の空。語り手は、それらの間に一切の優劣や先後関係をみない。メルカトル図法や等圧線、水の位相としての「リキッド」という概念、ディズニーランドやレッツノートといった人間の発明品も、自然から与えられたものと等質の詩性を持つ。そもそも「自然物」と「人工物」という分類をすること自体が人間の奢りであり、人の意志はそのものを具現化させたひとつのきっかけに過ぎない――そう主張するかのようだ。
けれど、そういったかなり冒険的な主張が妙に納得できてしまうのは、先に触れた「私」と同じように、人間の生み出したもの達もまた、永住しない存在だと捉える語り手の信念のようなものが、歌集全体に行き届いているからだろう。すべての事物がひとところには永住し得ないもの、けれど記憶や記号や予感として世界の上にたしかに在りつづける。そういう「クラウド」だ。最後のページを読み終えて閉じた時、不思議な安らぎとともに私自身がもう一度世界へ送り出されたような、幸福な気持ちだった。
あの口のつむいだ言葉は思いだせない 時は流れて雲(クラウド)は残る(p.123)
クラウドとは真一文字に光ることば きみには還ってゆくさきがある(p.173)
(2014年7月、北冬舎、ISBN978-4-903792-49-1、2,200円+税)