薫る夕暮れ、わかりはじめる

読んだもの、観たもの、いただいたもの、詠んだ短歌などについての記録。

黒瀬珂瀾『蓮喰ひ人の日記』

 この週末に黒瀬珂瀾さんの第三歌集『蓮喰ひ人の日記』を読み返す機会があったので、この歌集について私が今感じることをそろそろ書き記しておこう、と思う。

 

 今回の黒瀬さんの歌集は1年1ヶ月に及ぶアイルランド、イギリス滞在の期間に書かれたもので、タイトル通り旅日記の形式。異民族としての暮らし、その間に起きた東日本大震災、ロンドンでの暴動、リビア戦争、研究者としての妻の日々と出産、育児など、書き手の関心の在処は多岐にわたる。詞書プラス歌という形式は、世界と自身を克明に記録したいという強い意志を感じさせるけれども、それらと平行してジョイス『ユリシーズ』の一節が随所に引用されていることで、記録という形式の持つ暴力性がうまく削がれている印象がある。

 彼らの旅は次の一首からはじまる。

 

赤き薔薇ささげて待てる青年を過(よぎ)りて我ら旅のはじまり

 

 なんと言うことのない、バレンタインデーの街の光景。けれどもそれぞれが専門的な仕事を持った夫妻だから、差し出されたいくつかの薔薇を振り切るように出発した旅なのかもしれない、などとも思う。

 『蓮喰ひ人の日記』というタイトルは「短歌研究」連載時から同じであるから、旅をはじめたばかりの頃に抱いていた、予感や決意だろう。それはこれまでの日々を忘れて父親になってしまうことへの反発や不安かもしれないし、歌人として新しい立ち位置に立つことの寂しさであるかもしれない。それと同時にブルーム氏が出会う街の住人のように、同行人にとってのいっときの宿り木でありたいという願いであるようにも感じる(それにしては少し自虐がすぎるようにも思うけれども)。いずれにしても、「私は歩む、歩むが迷うぞ」という宣言であって、その宣言通り、大いに迷いながら父になっていく心の軌跡が興味深くも美しい。

 

生まれ来るまで幾度の海峡を渡る児(こ)か母を美しくして

鳩尾を蹴られて笑ふ妻よわが刃に堅すぎる英国キャベツ

大家族眺めてねぶる腿の骨かつて否みき父となること

サハリンと北緯等しき朝を鳴くユリカモメ 父になるぞよいのか

 

 

 胎児を宿す妻の姿はどこまでも愛情深い。そんな妻の姿を美しいものとして眺めながらも、どうしても自身が父となることにためらいを感じる心が拭いきれない、その心境を驚くほど何度も語る夫は正直だ。ためらうのは父としてあるべき姿というものをストイックに意識していればこそだろうか。出産後は、奮闘できる全てのことに奮闘する父という印象。

 

紙おむつ箱ごと背負ふゆふぐれのレジ内側に白人をらず

真夜中の言葉は甘く容赦なくおむつを替へてくれようぞ吾児

明日へわれらを送る時間の手を想ふ寝台に児をそつと降ろせば

 

 

 昼夜を問わない子育てにかかりっきりの日々だが、子どもと向き合う父は常にこどもに光を見出し、こどもを光の射す方向へのみ導こうと決意している。

 

この夏に一枚の葉を加へたる児よいつまでも飲み干せ父母を

擡げたる首ゆ初めて見る吾児よここだ、世界に航路は満ちて

反転の後の世界に瞠りをりどの明日も跳べ明日へおまへは

 

 

 自分たちの持つもの全てを飲み干して構わぬと語り、世界は航路に満ちているのだと断言し、つねに跳躍し続けよと言い聞かせる父の言葉は少し過剰ではないかと思うほどだ。過剰であるのは、心のどこかで世界の過酷さを意識して止まないからであり、父自身が挫折を知っているから、あるいは今もそのただ中にいるからだろう。世界が完全に明るい時期がもしあるのだとしたら幼少期だけであり、それが儚いものであると知っていればこそ、幼少期の我が子には全力で世界の明るさのことを語って聞かせたいのだ。

 

ダマスカス・タイルを貼るは少年のまぼろしを追ふごときさみしさ

道とは創らるるものなるか ねえドリー、君の旅路の終はりつてここ?

 

 

 ダマスカスとはシリアの首都。イスラム風のタイルを貼った建築物に魅せられながらも、イスラム的な少年性を自らはもう手放したものであると捉え、世界初のクローン由来の哺乳類である羊のドリーの剥製に真向かう時、神ならぬ人為の理不尽に強く憤ることを抑止できない。子に語りたい世界と自らの出会う世界との間には齟齬があるのだ。

 そしてその齟齬は世界の側にだけではなくて自分自身の中にもある。

 

メッゾソプラノわが情欲を奔らせぬ月夜の吾児を人に預けて

われら国を離りて――吾妹、汝(な)が水に触るるとき静かなり寒の獅子

妻がペネロペイアなりせば吾は誰 児を抱きて入る飛機の空洞

 

 父親になっても美に対した時の情欲は禁じ得ない。禁じるほどに、自分が遠い旅に出て自分ではない何者かになってしまったことを思う。妻はその喪失を忘れさせてくれる存在だけれども、どこか異質な存在、異質なればこそ「美しい」存在、と捉えているようにみえる。

 書き手は、常に異質な思想や感情を同居させてためらわない。そしてひとつのことを思いながら常に別のことを気に掛けずにはいられない。そんな書き手の人柄は先述のように歌を眺めて感じ取れるのだけれど、二物衝突の技法で作られた歌も独特の味わいがあるように思う。

 

鱈つつむ衣の厚きゆふぐれをhibakushaといふ響きするどし

 

 フィッシュアンドチップスだろうか。日本人にとってはやけに分厚く感じるその衣をつつきながら、突然「hibakusha」という新しい「英語」のことが心に過ぎる。鱈のフライがなぜ「hibakusha」に跳ぶのか、読んでいる側にはどうにも解らない。けれどひとつ推測が許されるならば、「hibakusha」という語のこと、こんな言葉に旅先で出会ってしまうこと、この地で自分たち夫婦だけが、その後の母語話者であり、その語にまつわる一連の出来事の当事者であるという切迫感や孤立感――そういった感情がつねに書き手の感情を支配していて、たとえば厚い揚げ衣、くらいの些細な旅情すらトリガーになって思い起こされてしまうということなのではないだろうか。

 

人はみな人食ひにして嬰児(みどりご)のこぶしのごとき芽を噴ける芋

乳首咥へ損ねて泣けば空腹も忘れて泣くに――「収束」と言ふ

円高の話は地震(なゐ)に行き着くを燻製鯖に油浮きをり

臓肉を詰めし羊の胃はまろび人智は人を愛するや、否

 

 芋を見ればまるで嬰児のこぶしを喰らうようだと思い、乳首をうまくくわえられずに泣く子を眺めている間にも、時期尚早な原発事故の「収束」宣言に憤りを覚え、油を浮かべる鯖や臓肉を詰めた地元の料理を眺めていても円高にまつわる議論や人智が愛を持ち得るかを思わずにはいられない。これらの二物衝突の歌からは、一方が一方の比喩になっている、とか出会った時の思わぬ詩性の飛躍、とかではなくて、常に案じていることを複数抱えて生きているメンタリティー、それゆえささやかなことがトリガーとなって、思いの外大きな憂慮してやまないことが、気ぜわしく常に思い出されてしまう。そんな書き手の本質的な心の有り様を感じる。

 これだけの揺れ動く心を、丹念に記録したその胆力を思う。巻末の歌からは、彼らが旅を終え、九州に新居を構えたことがわかる。それはずっとともに暮らす日々の始まりでもあるし、常に線の形で同行した旅を終えて、点としての住まいを共有しながらそれぞれが違う新たな旅に出かけることの宣言でもあるだろう。自分の島に停泊させた旅人をふたたび海へ帰すことで、オデュッセウスオデュッセウスであることを、蓮喰い人は蓮喰い人であることを、ひとまず捨て去るのだ。

 

玄界灘 この一面のまばゆさにオデュッセウスの背は溶けゆくを