薫る夕暮れ、わかりはじめる

読んだもの、観たもの、いただいたもの、詠んだ短歌などについての記録。

井辻朱美『クラウド』

 『水晶散歩』以来約10年ぶりの刊行となる、著者の第6歌集。

 

散文の論理ではない、詩の理不尽な結合力と飛躍力。

大人の「象徴界」ではなく、子どもの「想像界」。

最終的には、そこへ還ってゆくべきなのではないか、そんなふうに思ったのです。

 

 

 そう語る「あとがき」をどこまでも忠実に、ひとつの物語として立ち上がらせたような歌集だと思う。現実とファンタジーの融合あるいは境界。現実の論理の後追いではない、本当のファンタジー。この歌集への評価としてまず語られるべき点はそこであるけれど、すでに多く語られてきたことであるから、ひとまずそこについては触れない。

 その先のもう少し微細な質感を伝えるものとして私の目にとまったのは、たとえばこんな歌だ。

 

きょうここにいる ことがいつも耐えがたい 旅とはかがやかしい白雲だから(P.107)

 

 

 私は今日、たしかにここにいる。この現実世界、そして現実はたとえばこう俯瞰できるはずだと、思い描いたところの世界に。ひとつ目の一字あけはそのことへの揺るぎない断定だろう。けれどたった今断定されたはずの事実は、すぐさま「いつの日も耐え難い」と強い拒絶の感情でもって受け止められる。なぜなら、あたかもここにいるように見えるけれど、本当のところを言えば、私は白雲として世界を旅する存在なのだから。陽を遮り、時に雨すら降らせながら、けれどあくまで私自身は輝きながら、私がここに永住することはない。

 ファンタジーという手法をとっているからかもしれないが、そう言われてみると確かに、旅するクラウドとしての語り手は、歌集全体を通していつもひっそりとたたずむ。

 

指先で切符をはじいて鳴らしている 卑しき街をゆく騎士として(p.17)

テディベアの耳の湾曲しずかにて陽ざしは永劫あなたを照らす(p.34)

これからは好きなことしかするまいと紅葉爆裂わたしの連山(p.57)

泣きじょうごの男をひとり抱きよせて椰子の木の永久にわかい脊髄(p.69)

まぜあわす言葉の泡立ち もうぜったいに傷つかないでいたいとおもった(p.80)

きらきらと星が振れ出す天球図譜この世に生きてしずかな唇(p.68)

かぜがきてしづかな言葉をつむぐので響きの響きの響きであるわたし(p.80)

コバルトブルウの鳥がこの星に在ることはきみ、なんという救いだろう(p.22)

 

 

 こうして抜き出して読んでみると、どの歌からも語り手の感情を比較的ビビッドに感じる。けれど連作の中に置かれた形で読むと、語り手もあなたも、風や椰子やドラゴン、波、といった「世界」を構成する諸々のものたちとほぼ等しい存在感しか持たなくなる。私自身はあくまでしずかな唇をもち、風の言葉を増幅させて響かせる存在(さらにはその存在による響き、をさらに響かせる存在)に過ぎない。井辻の世界では、私もあなたもその他すべてのものが意志を持ってそこに「居る」のではなく、大きな力の何者かによってそこへ配置されて「在る」のだろう。それは宿命のようなものを帯びてそこに在るというよろこびでもあるし、寂しさでもある。

 

 ところで、黒瀬珂瀾は「赤ん坊のえくぼのようにくぼむ水は無限バイトのメモリーを持つ」の歌をあげて、「原始の生命力を表す水の上に、最先端テクノロジーの幻を見る。逆に言えば、現代科学を無機質な産業から神秘の理論へと奪還しようとする詩精神がある」と指摘する(「生き直す精神」『現代短歌』2015年3月号)。このような世界の把握の仕方はかなり顕著に、歌集全体にあらわれていると思う。

 

空調にほつれたしおりがそよぐかな 風の単語を習いはじめて(p.17)

合言葉きらめく滝を忘るなと吹き抜けに住む椰子のたてがみ(p.31)

うっとりと岬に抱かれた海があれば風はメルカトルの図法よりくる(p.32)

等圧線の波に心からあやされて泳ぐ列島をサウルスと呼びたい(p.47)

リキッドがどうしてこんなにさみしがるんだ揺れながら胸を打つ波頭(p.100)

この島にディズニーランドが着床してから惑星固有の風船の花咲く(p.102)

絢爛と本くずれたるデスクの隅に平伏しているレッツノートが(p.172)

 

 

 空調の風と海原や森をわたる風、吹き抜けとして屋内へと取り込まれた空と本物の空。語り手は、それらの間に一切の優劣や先後関係をみない。メルカトル図法や等圧線、水の位相としての「リキッド」という概念、ディズニーランドやレッツノートといった人間の発明品も、自然から与えられたものと等質の詩性を持つ。そもそも「自然物」と「人工物」という分類をすること自体が人間の奢りであり、人の意志はそのものを具現化させたひとつのきっかけに過ぎない――そう主張するかのようだ。

 けれど、そういったかなり冒険的な主張が妙に納得できてしまうのは、先に触れた「私」と同じように、人間の生み出したもの達もまた、永住しない存在だと捉える語り手の信念のようなものが、歌集全体に行き届いているからだろう。すべての事物がひとところには永住し得ないもの、けれど記憶や記号や予感として世界の上にたしかに在りつづける。そういう「クラウド」だ。最後のページを読み終えて閉じた時、不思議な安らぎとともに私自身がもう一度世界へ送り出されたような、幸福な気持ちだった。

 

あの口のつむいだ言葉は思いだせない 時は流れて雲(クラウド)は残る(p.123)

クラウドとは真一文字に光ることば きみには還ってゆくさきがある(p.173)

 

 

(2014年7月、北冬舎、ISBN978-4-903792-49-1、2,200円+税)